震災ブログ
(8)東日本大震災の記憶
05.24
K. T.
2011年3月11日、信じられない光景が目前に広がりました。地震の揺れのみならず津波が会社に押し寄せてきたのです。
午後2時46分、長時間続く大きな横揺れに膝がガクガクと震えました。揺れが続く中、物が倒れないように必死で押さえ、早く治まらないかと願うばかりでした。そんな状況でも、実家の両親や夫の安否がとても気がかりでした。幸いなことに、地震後にメールが通じて無事が確認できました。
余震が続く中、地震で倒れたものの片づけをしようとしましたが、何から手をつけていいのかわからない状況で、いざ片づけようとするとまた大きな余震がくるという繰り返しでした。

余震に怯え、何もできない時間がすぎ、社長から「おそらく津波がこの会社にもくるだろう」という話があり、全員2階に待機ということになりました。私はまさかこの場所まで津波が押し寄せることなんてない、仮に津波がきてもそんなに高さはないのではと思っていました。あの大きな地震からどれくらいの時間が経過したのか定かではありませんが、窓から見える三井アウトレットモールの駐車場あたりにジワジワと動く黒いものが見えました。それが津波だと認識できるまで、ちょっとの時間が必要でした。自分の目を疑いましたが、津波だと分かった瞬間「津波がきた」と大きな声を出していました。

津波は、駐車場にあった従業員の車を簡単に流し、さらにはバリバリと大きな音を響かせながら会社の1階を通りぬけました。何が起きているか、現実のことなのか、あまりにも日常とかけ離れた光景に茫然とするしかありませんでした。道路の水は全く引く気配もなく、自宅に帰ることは不可能な状態でした。雪が降り出し、冷え込みも厳しくなる中、そのまま会社の2階で一晩過ごしました。停電で、辺りは真っ暗でヘリコプターの音だけが暗闇に響いていました。一晩中余震の恐怖と寒さに耐え、翌朝窓の外を見るといつもの日々からは想像できない光景が広がっていました。時間ともに少しずつ水が引き、会社から脱出できて自宅に戻れたのは12日の昼過ぎでした。

自宅も相当な被害があるのではと覚悟していましたが、夫の話では倒れていたのが食器棚くらいで、後は配置がずれていたりしていただけだったということでした。もちろん食器の8割が割れて散乱していたのですが、私が帰った時には夫が片づけた後でした。

津波の後、夫と電話が通じたのは11日19時頃の1回だけでした。仙台の中心部に職場がある夫は、停電とともに一切の情報がなく、津波が到来している事実をその時まで知らなかったのです。そのため、連絡が取れて「津波で帰宅できない」、「車も流された」ということを伝えても「ウソだろ?」としか言いませんでした。事実、私自身も本当に津波が来るまでは数センチくらいだと思っていたし、信じられないのも仕方がないことだと思いました。

地震の後すぐに連絡が取れた両親でしたが、津波の後はしばらく連絡が取れませんでした。私の実家は石巻で、安否確認のために実家に行きたくても手段もないし、道路だってどうなっているのか何の情報もなく、心配だけが募りました。実家は、海から離れていますが、会社にまで津波が来たことを考えると、恐らく水は上がったのではないか、両親は逃げ切れただろうか、もしダメだったらどうしようとたくさんのことを考えてしまいました。

3月14日、父からメールが届きました。母も無事という内容でした。嬉しさと安堵で涙が出ました。しかし、電波状況が不安定なため、こちらからの返信は届かないようでこちらの無事を伝えることはできませんでした。その後、19日から石巻行きの臨時バスが仙台から出るということがわかり、夫に無理をお願いして一緒に石巻まで行ってもらいました。食料と水を持って行ったので荷物は重く、その上バス停から実家までの距離を長時間歩く考えだったので夫には大変感謝しています。

石巻市は私が育った石巻市ではありませんでした。実家の近くまで行くと、いつも見慣れていた田んぼが車やゴミで汚れており、道路にもたくさん車が転がっていました。砂埃が舞い、空はかすみ、実家まで行く道路の一つが寸断されていました。他県の機動隊が遺体の捜索に来ていて物々しい雰囲気で、知らない場所に来ているようでした。 14日以降連絡が全く取れなかったので、バスを利用して石巻に行くことは両親には伝えていませんでした。実家につくと、庭に両親がいたので「お母さん!」と声をかけると母はびっくりした顔でそして少しやつれた様子でしたが、涙を流して迎えてくれました。既に家の片づけは、進んでいるようでしたがまだ汚泥が残っていました。それから、毎週土曜日に夫と二人で食料を持って、片づけの手伝いに行きました。その度に、石巻の被害の大きさをそして復旧作業が遅れていることを実感しました。仙台は、沿岸部を除けば、震災後早いうちに普通の生活に戻りつつありましたが、石巻は元の生活に戻るのにまだまだかかりそうでした。

会社の片づけは、3月13日から始まりましたが、何から片づければいいのかわからないくらいすごい状態でした。汚泥は日に日に臭さを増し、泥だしをしてもなかなかきれいにはなりませんでした。機器類も海水に浸り、使えなくなったものがたくさんありました。ドアのガラスや壁も崩れ、改めて津波の恐ろしさを実感しました。社長の指示のもと、少しずつ片づけを進めていきました。社長の自宅も被害がひどく大変なのに、職員の為に会社の再建をしていただきました。私の実家のことまでも心配していただいて、大変ありがたく思っています。

この震災で、私はたくさんの人に支えられているなと思いました。夫の実家からは、車を1台借りることができたし、群馬にいる姉は実家の分も含めたくさんの支援物資を送ってくれました。また、夫の友人もガソリン不足で石巻にも行けないだろうからとガソリンを持ってきてくれました。実家から仙台行きの臨時バス乗り場まで歩いている途中も見ず知らずの人が車に乗せてくれました。本当に感謝の気持ちでいっぱいでした。

夫には特に感謝しています。震災後、私は何をする気にもなれず、必要なものの確保や食料調達などは夫が行ってくれていました。実家の片付けも嫌な顔ひとつせず動いてくれましたし、親戚のことも色々と考えくれて、引っ越しの手伝いもしてくれました。  この東日本大震災を経験して、普通の生活を送れることがすごく贅沢で幸せなことなのだと思いました。二週間以上もお風呂に入れなかったことなんて初めてで、入れた時の感動は今も忘れません。全国から復旧作業のために応援にきていただいて、きっと皆が感謝の気持ちでいっぱいだと思います。

東日本大震災から2カ月以上経った今も、避難所生活をしている人もいるし、ライフラインが復旧していない地域もまだあります。地震だけだったら、津波さえ来なければと今でも考えてしまいます。しかし、津波を目の当たりにしたことは、貴重な経験だと思います。この恐ろしさを津波のことを知らない方々に伝えていくことも重要なことだと思います。3月11日からもう少しで3カ月になります。まだ、大きな地震が来る可能性もあり安心できない毎日です。この震災を経験したこと、そして多くの方々の支えがあったことを忘れず、助け合いや思いやりの気持ちをずっと持ち続けていけたらいいなあと思います。


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(9)この頃おかしい
05.26
先日、岡本宏先生が復旧中の研究所にわざわざお見舞いに来られた。ちなみに私は昭和60年から63年まで理学部の竹内教授のところでお世話になっていたが平成3年から15年までの間、岡本宏教授の下で(東北大学第一医化学講座)ご指導いただいた。先生はインスリンを産出する膵臓細胞が壊れる仕組みを解明したことで知られ紫綬褒章受章、日本学士院賞を受賞し、名誉教授で、東北大学監事を歴任し現在は東北大学総長顧問で今も多忙である。その先生が奥様とボルボ??(ボルボには違いないがいつもの車ではない?)で来られた。。大地震の時、講演で仙台空港から飛行機で飛び立ったあとに上空から津波らしき白波が遠くに見えたそうである。(後に本物のそれも大津波だったと知る)正に間一髪だったとのこと。先生曰く・・あの時は・・駐車場に留めてある愛車(赤いボルボ)が気になったそうである。それから4月10日まで約一カ月金沢で過ごされたとのこと。(帰るルートがなかったそうである)

この頃おかしいと先生は言う。10年間毎年釣れる白石川の上流域。その川で釣れるアユ(一日で100匹以上釣る腕前の先生でもある)が全く釣れなくなったそうである。仙台港はどうだね?と尋ねられた。先生・・釣りをしたくても・・釣り道具まで流されたんですと答える。頷く先生にもう一言。今はまだ釣りをする気分にはなれません。まだ行方不明の方がたくさんいるので。。。そうか。。とぽつり。

研究所が津波で被害を受けた翌朝、敷地内にフグやアナゴ、カレイが泳いでいましたよ。多賀城のある家ではトイレの中に大きなボラがそうです。残念ながらクロダイはいませんでしたけど。きっと秋か来春には釣りができるかもしれませんね。岸壁に行っても誰も釣りをしていませんよと話をした。

空港の空き地に被災した車が積み上げられている。その中から自分の車を探しに行ったそうである。赤いボルボがめちゃめちゃになっているのを発見したそうで、今日は代車で来たとのこと。しばし談笑ののち颯爽とボルボで走り去る!かっこいい!

帰り際、先生から「がんばれ!」の一言。 とても心強いエール!


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(10)震災から3カ月
06.07
仙台港の南側に位置する蒲生周辺は干潟が有名な場所で景観の良いところだった。道路からの車や瓦礫は撤去が大分進んだがサーフィンで賑わう砂浜へは未だ通行止めだ。 だがそれ以外は未だに何もかもが手つかずの状態だ。
蒲生1
それは何も蒲生周辺だけではない。七ヶ浜、仙台港、多賀城、名取、閖上、亘理、荒浜、石巻、南三陸など全ての被災地域も同じ状況だ。ボランティアも非常に少ない。 3か月経つと世の中から忘れさられようとしているような錯覚さえ感じる。会社は被災し・・そして完全ではないが復旧をした。・・
今度は私達のような被災復旧組みがボランティアに出かけたい。もちろん社命としてだ。
蒲生2

仙台港の南側から見る。建物の後ろが蒲生である。一面何もない。今でも遺体の発見のために自衛隊が活動している。

6月7日の河北新聞の朝刊に「公立志津川病院」の記事があった。津波から入院患者を救う医師、看護婦の姿。もう助からない!と思って腕に名前を書いたとあった。死を覚悟して必死に入院患者を5階まで運んだそうだ。それでも107名の内70余名を助けることができなかったそうだ。4階まで津波がくるとは誰も想像していなかったに違いない。 恐怖で堪らなかったと思う。私も時々、夢を見る。津波が背後から襲ってくる夢だ。 震災から3カ月... なかなか悪夢は消えない。

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(11)光太郎が震災を振り返る
06.14
いつも元気ではしゃぎ回る光太郎君7歳。M 9.0の大地震にさすがに光太郎は「驚いて吠えまくる」。しかし尋常でない揺れに次第に声も出ない、かっちりとしがみついて離れない。怖かったと思います。余震も何度あったろうか。その度にパニックになって怯えていた。
震災前のアクセス数は光太郎がトップだったが、震災後はブログがトップ。光太郎のファンから光太郎君は元気なの?という心配のメールが多数ありましたので今回は光太郎の視線で震災を振り返ってみたいと思います。

大きな地震で地面に一番近い僕はとってもこわかった。
女性のキャーキャーという声がたくさん聞こえたので地震の次にこわかった。
僕には津波はわからなかったけど、波が押し寄せる感じは「海で遊んでいたとき」と同じ だった。

Koutarou1
(真夏の海を散歩する光太郎)
  Koutarou2
(毎日くる余震でつかれちゃった)

だから飛びついて抱きついちゃった。
夜になって寒くて僕は震えていたら毛布で抱きしめてもらっちゃった。
暖かくて安心できてうれしかった。
だからその日はごはんも忘れ、水も飲むのをつい忘れちゃった。
頻繁に地面が揺れるのは「もうこりごり」だ。
怖くてしかたない。
次の日から会社のみんなが瓦礫処理をしているのを見て僕も手伝おうと思って走りだしたら怒られちゃった。なんで?と思ったんだ。危ないからダメ!!とボスの声!
ボスは怒りっぽいから仕方なく、みんなの安全監視をすることにした!
泥棒と戦うボスは頼もしいけど。。合気道で使う「樫の木でできた杖」を振り回すのだけは止めて! 僕は乱暴なことが嫌いなんだ。
3.11が過ぎて4.6の地震。
忘れかけていた恐怖がよみがえった!!
もう・・死ぬかと思った。
泥の粉じんが舞い上がって僕は散歩もできなかった。
辛く、長い日々を耐え忍んだ3カ月。
今は朝、夕の散歩が楽しい毎日です。
御心配いただいて感謝してます。ファンの皆さんにメッセージです。
「僕は元気だワン。がんばろう!みんな!だワン」