震災ブログ
(12)100日
06.20
大津波から100カ日。蒲生の干潟の約1000世帯。中野小学校の辺りを見た。道路はあちこち寸断されて未だに通行止めが多い。干潟に近づくにつれて建物は無くなっている。あちこちの建物の基礎の傍らに発見された場所に「花束」が添えられていた。目を真っ赤にした女性や家族があちこち。お線香をたいていた。胸が苦しくて言葉にならない。
防波堤のコンクリートの大きな塊があちこちに散乱している。物凄い津波の力だ。

やっと干潟に。干潟の一面。昔の面影は跡形もない。
直ぐ目の前に海が見える。100日経った今、瓦礫処理が進んでこの程度だ。
花束を添えて祈ることにした。
地盤沈下も70cmぐらいだろうか、小川が運河のようになっている。
生きている自分がこれから何をすべきなのか。目標を探して100日、研究所の復興を目指して頑張っているが、自分の中にそれだけではない何かを探しているもう一人が居る。

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(13)線路がない
07.04
ここは宮城県と福島の県境に近い「山元町」。たくさんのトラックが往来する。多賀城市や石巻市、仙台市と比べると瓦礫処理が結構進んでいた。ふと踏切らしき面影を見つけた。 目を左に向けると線路がないところに電車があった。右を向いても左を見ても線路は見えない。近くの民家は見た感じ大丈夫そうだった。
しかし津波が押し寄せた方向からみると一変した。反対側の1階は柱だけだった。無神経と思えたので写真は「電車」だけにして控えた。

今日は「被災した住居の撤去」について多賀城市役所に相談に伺った。市の職員の丁寧な応対。昼休み中なのに私を見つけて直ぐに「お客様いかがなされましたか?」と聞く対応ぶりには多賀城市民として少し誇らしげな気分になった。
住居は長期避難地域で全壊扱いなので撤去申請の手順を教えますので「これらを準備して申請ください」と説明する市の職員。とても気分が良いので続いて6階の総合相談所へ向かった。 住居の購入・建設の場合の申請手続きを聞きたかった。ここも受付から相談担当の方も丁寧な応対ぶりだ。しかもデータがあるPCを目の前にしてなのでspeedは早い。
ふと胸元をみると桐生市、香川県、高松市など全国から応援に来られた方々が担当されていた。被災地に赴いての任。たくさんの話を聞いてくれてありがとう。感謝しますとお辞儀。帰り際、逆に頑張ってくださいと励まされた。


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(14)復旧が遅い
07.05
建築関係の方々と話をする機会が偶々あった。仮設住宅の某大手の社員は8月中には応急仮設住宅はほぼ完成するかもしれないがここにきて見通しが立っていないという。理由は工事の大工さんが疲労で何人も倒れて病院ですよ!と言う。仮設ユニットの生産が追いつかないのと、企業からの注文が多くて、3年から5年かかると言う。マンション建設の社員は9月ぐらいから今の10倍以上の仕事が待ち受けていると言う。何しろ足場を組む材料も無い。部材もない。人も足りない。何年かかるのか建設特需と言うが身体が持たない、と言葉に力がない。一般住宅も同様だと工務店の棟梁が重い口を開く。建設許可や検査許可も遅れていて全てが遅いと憤る。TVで石巻赤十字の医師が活躍するのを見た。石巻の医師や大学の先生が「医療をする以前の問題だ!」「物資が無くて命を落とす」。「救援物資は一杯あるのに何故届けられない!」行政の対応の遅さに激高し、命を繋ぐことの尊さを訴える姿には感動したと話す。
私も見ました。大学の先生は東北大学病院の病院長なんですよと教えた。
皆・・缶コーヒーを飲みフウーとため息をつく。
解体専門の業者の方が「今までの話は地震の被害でしょう?私らは津波でやられた瓦礫処理と家屋の解体だけど。。もう何人も過労で倒れて。。満身創痍だよ」と言う。あと何年かかるか考えたくない。と肩を落とす。 今日集まった方々の話をまとめると。工事の件数は仙台市内だけでも数千以上ある。それも順番待ち。それも数年かかる。津波被災地では瓦礫処理後に仮設住宅の撤去(入居期間は2年)と目白押し。被災地の苦労を何にもわかっていないという「嘆き」の声ばかり耳に残った。
大阪や九州、名古屋など多数の県から多くの復旧支援のために建設関連企業からも被災地へ応援に来ているという。それでも資材が足りない。人が足りない。それだけ、かつてない規模の大震災であること。私たちは未体験ゾーンの入り口にやっとこれから立とうとしているのだ。

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(15)震災から4カ月
07.11
石巻の港湾地域、未だに石巻市役所から海側は信号機も点いていない。石ノ森章太郎の漫画館も大きく被災していた。特に渡波(わたのは)の状況は未だに津波の爪痕が色濃い。渡波は気温35℃の猛暑だった。それにもかかわらずボランテイアの方々が汗を流しながら泥の除去を今も行っている。この渡波で私の知人(毎月一回会って仕事やいろいろな事を語らう間柄だった)は家族6人を失った。両親、妹とその子供、全てを失い「折れる気持ちを必死に耐えていた知人・・」は言う。最後の行方不明だった母親を発見できた。6月末にお墓を「福島の会津市」に建てた。震災後の忙しい時に200人の弔問客があった。遠く出雲大社の神主さんが駆けつけて弔ってもくれた。知人は銀行マンである。銀行も大変な被害に出遭っていた。震災後の翌日から宮城県沿岸部にあるほとんどの銀行がやられたそうだ。そのため安否確認、行方不明者捜索と復旧に全力で立ち向かっていたとのこと。自分の家族の安否を気にしながら結局2週間過ぎてやっと「石巻の渡波」を見たそうである。涙も出なかったと淡々に語る。今は何年後になるかわからないが「石巻に戻ってきたい」。。家族や親せきが住んでいた町に・・目が潤む・・・
4カ月経った今も「必死に耐えている知人」・・今度おいしい酒でも飲もうか?ハイという返事。それから1週間後、石巻市を訪ねた。
未だ何にも進んでいない感じ。。石巻だけではない。どこの被災地も同じだ。
・・どうにもやりきれない・・一向に復旧が進まない苛立ちがつのる。
渡波(わたのは)方面から石巻の海岸方向へ向かう。加工会社がたくさんあるが全滅状態だ。高さ10数メートルもある建物と同じ高さの津波がきたそうだ。
遠くに少し斜めになった灯台が見える。地盤沈下で海面近くまで低くなっているせいか灯台も時々波をかぶっている有様だ。

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(16)瓦礫と臭い
07.25
津波被災したところは瓦礫の山があちこち見られる。悪臭とハエが凄い。
海では・・やっと海中から自家用車を引き揚げる作業も行われ、中には遺体も見つかっている。まだまだ海中にはたくさんの車があるそうだが時間がかかるようだ。
釣り餌屋さんも商売があがったりのこと。今年初めての釣りをした。釣りをしている最中にもハエがいっぱい集まってくる。風の向きによっては悪臭が漂う。負けじと釣りをして メバル、銀さけ、アイナメ、かんぱち、フグ、を釣りあげた。
魚もやっと戻ってきた。少しずつだが震災前の海になってきていると感じた。
しかし。。この瓦礫から漂う悪臭だけは早く何とかしてほしい。具合が悪くなる。

多賀城市、笠神、津波のYouTubeの動画を見た。堤防が決壊して街中に津波が押し寄せて いる。最後に映し出されたところに「ヒトがゴロゴロと転がっているシーンがあった」 恐らく撮影した方も気がつかなかったと思う。一瞬だが悲惨な光景が記憶を呼び醒ます。 現在の砂押川は応急処置しただけの状態だ。秋の台風シーズン前に早急な堤防のかさ上げや本格的な対策が必要だ。この地区は今でも避難区域に指定され、避難所で暮らしている人が多い。(私もその一人だ)